Cover Christian Hosoi JACK Shizunami Shizuoka 1988
フロントサイド“JUDO AIR”を軽々とメイクするクリスチャン・ホソイ。チームホソイの記念すべき初来日デモは静岡のジャックを皮切りに大阪アスコット、池袋の3箇所で行われた。サージ・ベンチュラ、アイバン・ホソイ(父親)、
ブロックがツアーメンバー。JACK 静波 1988年
LIVE to SKATE いきるためにスケートする。
Christmas Ramp by Tatsuya Mino circa1985
伝説のジンDuaaa発行のメンバー三野達也の描いたメリークリスマス、ジャンプランプ
写真集「JUDO AIR」は、1980年代の前半から十数年間アメリカのサブカルチャーであるスケートボードを通して、その時代を日本人の僕らが体験した記録です。世界的にスケートボードが競技からストリートへ移り変わっていくなかで、多くのトリックやムーブメントが生まれました。
それをもとにスケートボードが現在カルチャーやアートと位置づけられるようになったのです。毎日、ただ滑り、スケーターたちがトリックをメイクする瞬間に無我夢中でレンズを向けていました。無意識の使命感ともいえるものでした。
スケートボードに本気で夢中になれた19歳の自分たちといま何かを手探りでさがしているひとへ捧げます。
What's ?JUDO AIR
Tony Hawk Aki Akiyama Nishi-Shinjuku 1985
テレビ番組の収録で突然来日したトニー・ホーク。コーディネーターをつとめたアキ・秋山とフラットセッションを楽しむ。偶然にもバックサイドボンレスがJUDO AIRになっている瞬間。都庁が建つ前の新宿西口は駐車場だった。1985年。
Yoshifumi Egawa Yoyogi-Hokoten 1987
このスポットは70年代からスケーター(ローラースケート含む)のスペースとしてスラローム用のパイロンが置かれたり、フリースタイルの大会が開かれたりしてきた。80年代の中頃に自然発生的にジャンプランプが持ちこまれるようになった。まるでショーのように次々と打ち上げられる少年たちを見るためにギャラリーが取り囲むこともあったがBGMは隣のバンドから流れてくる音であったしMCもいないしデモンストレーションでもなかった。自由にメソッドエアをする江川芳文。 代々木公園歩行者天国1987年
Tony Hawk Nishi-Shinjuku 1985
14歳にしてはやや身長が高かった17歳。靴のサイズは11インチ。都庁の議事堂建設前。背景のビルはワシントンホテル。トニー・ホーク 西新宿 1985年
Transworld Skate EXPO Vancouver 1986
スケーターでいてよかったと心から感じた初アメリカ。
写真はカナダのバンクーバーのエキスポで開催されたスケートボード世界大会
Musashi rollerskate ring AKA Kiyose circa1986
通称”キヨセ”(ムサシローラースケートリングが正式名称。スケートボード暗黒期に関東唯一のバーチカルスポットとして数々の熱いセッションが生まれた。
Steve Caballero Kiyose 1984
初めて目にしたアメリカのプロはこの
スティーブ・キャバレロとロドニー・ミューレンであった。清瀬1984年
Aki Akiyama Death Valley
Kagawa 1988
うどん県にはインドアにメタル製のバーチカルとボウルを持つショップがあった。バーチカルでバートリバートをメイクするアキ・秋山 1998年
Hiroshi Otaki Gaien 1985
ムービンオンマガジンのストリート
特集号でビーンプラントを披露する
大瀧ひろし。1985年
Yoshifumi Egawa Ascot Board Park Osaka 1991
”Real”チームのデモで訪れた大阪。アスコットボードパーク大阪。
江川芳文 1991年
Takeshi Yoshiga Yoyogi Hokoten 1987
ヒノちゃんというあだ名をつけたのはストーミー社長。吉賀健 代々木
歩行者天国 1987年
Takahiro Morita Ikebukuro
Sunshine City 1991
90年代は池袋のサンシャインでアクティブコレクションという展示会が開かれていたので周辺でセッションが行われた。
森田貴宏 1991年
Steve Caballero Kiyose 1984
清瀬の金属製のランページで滑るスティーブ・キャバレロ。上でカメラを構えているのはラスタマンこと溝部薫。1984年
Aki Akiyama Azabu 1989
陽が傾きかけた骨董通りで雑誌”Fine”の撮影。アキ・秋山。1989年
Ken Fukuda,Chris Williams,Randy McClelland
Toritsudaigaku 1985
スケートボードを通じて友達になったアメリカンスクールの中学生たち。都立大学駅そば。ケン、クリス、ランディ。1985年。
JUDO AIR
Skaters in '80s
Christian Hosoi
Takeshi Negishi
Hideki Morishita
Takeshi Miyauchi
Steve Caballero
Rodney Mullen
Tony Hawk
Aki Akiyama
Mitsugu Toyoda
Phillippe Maintenay
Seigo Fujii
Kakkun
Steve Schible
Tatsuya Mino
Hisakatsu Nihei
Hiroshi Ohtaki
Kaoru Ohno
Shigeru Ishihara
Katsutoshi Akiyama
Katsumi ROSE Matsushima
Andreas Camacho
Toru Ryuno
Tatsunori TORO Morioka
Yoshimitsu Shino
Natas Kaupas
Jesse Martinez
Eric Dressen
Chuck Katz
Dave Hackett
Don Hartley
Chris Black
Kevin Stabb
Shosaku Takei
Tsutomu Miyazaki
Hi-kun
Hiroaki Hirose
Yoshifumi Egawa
Masazumi Makabe
Kazuaki Ishihara
Tatsuya Okudaira
Tomonori Rip Tanaka
Inna Original
Masaki Hayasaka
Suzutaka
Adrian Demain
Kevin Harris
Lance Mountain
Tsuyoshi Kawasaki
Sergie Ventura
Mayo Nozaki
Rental Matsui
Aaron Murray
Toshiyuki Noda
Yoshihito Jesse Kawada
Akira Ozawa
Satoshi Kawamura
Mark Gonzales
Chris Miller
Frankie Hill
Hiroshi Fujiwara
Jun Kim
Shinichiro Nakamura
Lester Kasai
J.Grant Brittain
Keith Stephenson
Ben Schroder
Jeff Kendall
Masahiro Igarashi
Yuji Nakazawa
Takeshi Yoshiga
Masanori Saluda Nemoto
Furiten
Maho Kawaguchi
Yuichiro Yamada
Masanori Nishioka
Daisuke Tanaka
Mike Mcgill
Wood Kurata
Natsuki Ohba
Katuro Taguchi
Toshiyasu Ishikawa
Wataru Nagashima
Akihiko Akeem Nishimura
Takahiro Morita
Tommy Guerrero
Jim Thiebaud
Jeff
Salman Agah
Satoshi Yazawa
George Nagai
Junnosuke Yonesaka
Shigeru Ohmura
Shin Okada
Junichi Arahata
Alex Lee Chang
and more
Cover Christian Hosoi
Steve Caballero Tsukashin Amagasaki 1987
キャバレロ二度目の来日。つかしん 尼崎1987年
83年、高校3年の春、半分忘れかけていたスケートボードを思い出させてくれたのはクラスのちょっと地味目、だけど話してみると、かなり気が強いモリシタというクラスメイトのお陰だ。もちろん、自分も地味目な部類である。それでもってゼンソクもちであったせいかは分からないが、世間を斜めから見る性格になっていた。そんな僕が、ある瞬間に人生が決定されてしまったのだ。それは体育の授業でテニスコートで体育座りしながら、何かの順番待ちをしているときに隣に座っていたモリシタから、唐突にスケートボードの“今”をささやかれた。『平和島、原宿、オーリー、渋谷児童館…』ふだんは居眠りばかりしていた無口なモリシタは熱く語った。自分もまた過剰なくらいに反応した。翌日、夜の8時に渋谷児童館で待ち合わせをした。
渋谷児童館には小学生の頃よく行った。入り口にロボットが待ち受けている。何十本というコードが付いていてこちらに向かって、色々としゃべってくれる未来的な場所だった。(たぶん人が脇からしゃべってたんだろうけど…)目的は工作室。そこは電動糸鋸を自由に使うことが出来るのだ。中学くらいになるとさすがに“児童館”には近づけなくなる。その年頃になるとお祭りとかもにも近づけなくなる(店のおじさんが怖い人だと分かるから…)話は逸れたけど、たぶんそれくらい児童館からは遠ざかっていた。
久しぶりに訪れた薄暗い水銀灯に照らされた夜の児童公園。(正確には渋谷児童館の隣にある美竹公園である。現在、両方の土地に渋谷区役所の臨時庁舎が建っている。)そこは滑るための場所ースケートボード・パークだった。東急文化会館の屋上でチラっと眺めたことしかなかったスケートパークだけれども、自分にはそう思えた。この公園はスケートボードのために設計されたのだ。中央の砂場の周りを囲むように向かい合わせにフラットバンク状の滑り台。上部には、レールが付いている。2015年に存在していれば、かなり遊べる造形物であろう。まずは、根気よく公園の竹箒で砂場の大量の砂を端に寄せる作業だ。
すると下からコンクリートが顔を出し、湿ったコンクリートを丹念に掃き続けると、フラットが出現するのだ。バンクの片方は3メートルくらいで、片側はややゆるく、幅広で身長くらいの高さだ。面はキレイであるが、それなりに味もあるから新しいものではない。周りには腰くらいの高さのクオーターパイプもある。サーファーなら波乗りをイメージしそうな20メートルほどの長さのアール…砂場の下のコンクリートの平地でモリシタが見せてくれたフロントサイド・オーリーは、まるで魔法のようだった。何で浮かぶんだ?でも自分でも出来そう!?コンバースを擦る動作、シムスのテールがコンクリートに当たった湿った響き。夜の公園を覆っていた木が発するあの独特な初夏のニオイを嗅ぐと、今でもついこの間のことのように思い出す。ボーイズボーイズを観て、スケートボードを買ってもらったときよりも、強烈な何かが組み込まれたのだ。翌朝6時にまたここにこいよと、冗談のような誘いを真に受けてまた、朝行くと、モリシタと別のクラスのネギシも来ていた。連中はホントに来たのかよって顔をしながら、それ以上踏み込んでも来ない。昨日のオールナイトフジがどうだとかそんな会話をしているから徹夜だったのだろうか…夜中にテレビを観れるような家庭ではなかったから話には加われないけれど、興味があるのはスケートボードだからどうでもいいことだ。昨日の晩に真面目に砂を戻したので、また竹箒で砂をどかすところから始める。
小学6年の時にデパートで買ってもらった年期の入った国産のスケートボードを自転車の前かごに入れて渋谷まで走ってきた。途中で警察官がそれは君のものかい?と聞いてきたマジックで住所と名前を漢字で年賀状の差出人のようにでかでかと書いてある板をみれば誰だって高校3年生の持ち物だなんて思わないだろう。
JUDO AIR STORY1
TEXT ヒガイヨシロウ
Hideki Morishita and Takeshi Negishi Mitake Park Shibuya 1983
僕を再びスケートボードへと呼び戻した場所。高校の同級生森下と根岸美竹公園 1983年
Skateboard Photobook
写真集 「JUDO AIR」
ARTIST YOSHIRO HIGAI
PAGE 180pages/4c
ALL Film 158CUT
SIZE 297×225mm
PUBLISHER Bueno!Books
PRICE 3,800yen (+tax)
All film
158
撮影:1983年〜1998年頃
タイトル:JUDO AIR
ページ数:180ページ
全フィルム
掲載:158点
主なカメラ:オリンパスOM-1new, キャノンT90
主なレンズ:Kodak TRI-X, Ektachrome64,
Kodachrome64, Fujichrome100d
主なフィルム:ZUIKO 21mm 28mm 50mm
FD 15mm 17mm 20mm
翻訳:Ken Williams
カバーを外すとカラー版のクリスチャン・ホソイ
Skull Skate Crew Vancouver 1986
「もしスケートボードをやっていなかったらこんな格好をした連中と関わり合いにはならないだろう」樋貝
Yoyogi Park Hokoten 1985
AJSA主催のフリースタイルコンテスト。代々木公園 歩行者天国 1985年
原宿駅を背にして緩やかな坂道になっている竹下通りを見下ろすと無数の服と黒いアタマが折り重なるようにゆらゆらと動いている。モリシタに続いて意を決してそのアタマのひとつとなってみると、思ったほどの混み合いではない。さまざまな原色の縁のサングラスやブカブカの服がぶら下がっている露天から少し落ち着いたブティック、マクドナルドやスパゲッティ屋、やや高級そうな寿司屋が軒を連ねている。路地を埋め尽くす若者と中高年、外国人たちをマイケル・ジャクソンだかデビッド・ボウイといった流行の洋楽があちらこちらから包み込んでいる。キョロキョロと辺りを見渡しながら、200メートルほど進んだクレープの甘い香りがマックスに達した右手に僕らの目的地はあった。スケートボードとローラースケートが店先に並んでいる以外は普通の靴屋のようだ。モリシタにこの店の名前を聞いたときは居酒屋か?と聞き返した。高校生が居酒屋と思うかもしれないが付属校だということもあり時折クラスで開かれるコンパや何を上げるの分からない“打ち上げ”というものがその居酒屋で頻繁に開かれていた。部活もやらず、受験まっしぐらでもなく、といって遊ぶ訳でもない中途半端な17歳の高校生でも居酒屋に行くことは珍しくなかった。
月桂樹をアタマにつけた古代ローマ人の横顔が店のグラフィックだ。モリシタはカウンターテーブルを挟んだ作業場でスケートボードにデッキテープを貼っている青年に声をかけた。ショップの看板ライダーの“ローズ”こと松島勝美である。マッシュルームカットで目鼻立ちがハッキリとしている。モリシタが言うところの日本で一番うまいスケーターだ。「そうなんだ。スケートボード買いたいんだね。このショップオリジナルがおススメだよ。」僕は店内に飾ってある夥しい数のスケートボード、ウイール、トラックに目移りしながらも初めて会うタイプの人だと感じていた。ローズはダラダラしている高校生の僕らを適当にあしらうとナンバースリーにジュースを買いに行くと言うと店先に転がっていた板に飛び乗り雑踏をスラロームのように縫って、そのコンビニへ消えていった。
ローズにとってはモリシタはたまに来る客のひとりといった感じだったのが少し寂しかった。それでも不思議なスターに会った興奮で「ハーフなのかな?」と言うと「さあ、少しは入ってるのじゃないの」とモリシタは投げやりに返した。アメリカから輸入されているスケートボードはデッキ(板)だけで15000円から20000円くらいした。ウィール(車輪)もトラック(金具)も何も無しでである。乗れる状態にすると50000円にはなる計算だ。輸入モノが高いのは仕方がない。1983年はドルが250円した時代だ。それが、数年後には125円になり、さらに数年後は80円台になった…。
僕のモチベーションを大ざっぱに分析するとモノを手に入れることにあるようだ。小学生の頃は模型、忍者の道具、スケートボード。中学生の時の一眼レフカメラなど…スケートボードもスポーツノートというハウトゥシリーズのカタログページの商品の値段と写真を幾度も量りにかけては心臓の鼓動を速くしていた。
現代人にとってモノとその値段との葛藤は限りがない。自分の身の丈にあった、いいものを見つけるのがモノを買う醍醐味である。初めて買ったカメラはオリンパスOM-1newだった。かなり悩んで新宿の西口にテーマソングを歌を歌いながら向かった。(心の中で)ニコンF2は高すぎて論外として、対抗馬としてのペンタックスMX、リコーの一眼サンキュッパではなくOM-1を選んだことは自分にとっては正しかったと思う…。
それから毎日のように通った今でこそ全国に百数十店舗を構える横乗り業界大手のメガチェーンだが当時は上野に2軒と、この原宿だけだった。
モノ選びにこだわりを持っていたはずの僕が翌週そこで購入したスケートボードは、モリシタのおススメではなかったムラサキスポーツのローズモデルだった。
JUDO AIR STORY2
TEXT ヒガイヨシロウ
http://judoair.com/archives/217
http://judoair.com/archives/234
Reception
僕らがスケートボードを通して体験したこと。
すべてがはじまった時代。’80s。大集結!!
'80sのみなさんと激熱な集合写真
サイン中の豊田貢さんとレジェンドアキ秋山さん。おふたりのご紹介はこの枠におさまらないので別の場所で改めて!!!!
ご来場ありがとう!!
Steve Caballeroと八王子にて
80年代 スケートボード写真集「JUDO AIR」お取扱店募集中
「JUDO AIR」のお取り扱いは
スタジオ フィッシュアイまで
お問い合わせください。
TITLE JUDO AIR
ARTIST YOSHIRO HIGAI
PAGE 180pages/4c
SIZE 297×225mm
PRICE 3 800yen (+tax)
雑誌掲載
トランスワールドJAPAN
昨年末、「JUDO AIR」という日本のスケートボードの歴史を紡ぐひとつの写真集がリリースされた。 この一冊に収められた写真の数々は、1980年代前半から十数年間かけて切り取られたもので、全世界 的にスケートボードが競技からストリートへ移り変わっていく激動の時代の記録。多くのトリックやムーブ メントが生まれ、現代へと引き継がれる礎が築かれていった。"古きを温ねて新しきを知る"。ここでは、 それぞれの時代を牽引してきた者の姿を、制作者である写真家、樋貝吉郎の言葉と共に振り返っていきたい。