●スマホ
文字25VA+1
幅563 間隔200
タイトル/ゴシ25
タイトル2行の時は間隔140
●PCパソコン
文字19VA+1
幅 618 間隔210
タイトル/ゴシ24
タイトル2行の時は間隔140
Christian Hosoi Seylynn Skate
Park North Vancouver 1986.
作品タイトルは『1986』。1986年8月25日に撮影した写真を翌年スケートボードに転写したものだ。1986年21歳の夏に初めて海外に行った。アメリカ西海岸一人旅だ。とにかく見るものすべてが新鮮で、数限りなくシャッターを押しまくった。
そのなかで、ほぼ、奇跡のようなタイミングで撮れた写真である。ベストショット中のベストショットだ。カナダのバンクーバーEXPOで初めて世界中からスケーターが集まるようなコンテストが開かれた。ノースバンクーバーでのボウルコンテスト。86年当時で既に風化したコンクリートボウルにはTHRASHERやTWSのカバーを飾るスケーターが大挙して集まった。バンクーバーとカリフォルニアはまるで違う。そもそもカナダはアメリカと地続きだが中身は大違いだということを知ったのはそのときだ。日本人の僕らが来日するアメリカ人スケーターに興奮するのと大差なくカナダ人たちもアメリカから来たスケーターを初めて自分の目で見て高揚していた。自分からしたら見た目は変わらないし、英語も普通に話せるのにって感じなんだけれどね…。
カナダのバンクーバーを中心としたスケーターたちほぼ全員がそこに集結していたと言っても過言ではない。ボウルのまわりをギャラリーが幾重にもぐるりと囲んで一睡の余地もないほど身動きがとれないようにみえるなか、パーティ明けで遅刻してパークに現れたホソイ。
誰もが待ちわびていたスーパースターの登場に会場はざわめく。あきらかに二日酔い。ヘルメットを忘れたのか。マイク・マッギルのフライアウェイをかぶった。余裕をもて余しながら、ボウルにドロップ。フロントサイドとバックサイドのカービングは、どよめきと歓声を引き連れコンクリートを疾走するウィールはうなりをあげて加速する。本戦で一発だけ放った会心のメソッドをこれ以上ないであろうアングルとタイミングで残せたのは、ほんとうに奇跡だ。
スケーターの一番の見せ場を最前線で押さえるのが自分のポリシーだ。その日は、ボウルのディープエンドでのジャンプランプ的ロケット発射だった。ギャラリーギリギリにランディングするのだから、見ている方もスケーターの動きに応じて引く潮のように寄せたり引いたりしないといけない。当時のフィルムを見返してみると、アクションに対して一枚しか押していない。連射はしていない。滑っているスケーターと一体となる決意のようなものがあった。
このスケートボード作品は、写真学科で芸術を専攻していた32年前、スケートボードと写真が結合したアートオブジェを作れないかという思いで制作した。
元の板は原宿のムラサキで購入したシュミット・スティックスのジョン・ルセロ モデル。クールなドックタウンを買うという手もあったが、仕上げがキレイで軽量なシュミットを選んだ。今思えばちょっと理解できない。結局グラフィックが気に入らず作品のキャンバスとなる運命を辿るわけだが。ノーズはこれにあわせて自分でシェイプした。
肝心の写真をどうやって板に転写したかというと、当時発売されたばかりのアート エマルジョンという富士フィルムの液体印画紙的なものを使った。幸いこの写真はカラーネガで撮っていたので、モノクロでプリントすることが出来た。手順はこうだ。黒くスプレーで塗ったスケートボードに白いペンキで写真を転写する四角いスペースを作る。次は暗室でアートエマルジョンの溶剤を白い部分に塗り、露光させて現像、停止、定着、水洗と通常のモノクロの引伸と同じ行程になる。板が大き過ぎて、普通のバットには浸からないので刷毛を使って薬液をかけて処理をした。こんな感じだったと思う。あとは乾燥させクリアニスを塗って、ステッカーを貼って完成だ。
出来上がったデッキの運命はさらにアートを突き進むこととなった。当時好きだった写真家でベルナール・フォコン(Bernard Faucon)という人がいて、マネキンに火をつけたり、いろんなものを爆破させて撮影、表現していた。その当時、コンセプチュアルアートが流行っていたのだ。その彼になぞって、僕はスケートボードの板に火をつけた。
写真集 “JUDO AIR”より
写真集「JUDO AIR」は、1980年代の前半から十数年間アメリカのサブカルチャーであるスケートボードを通して、その時代を日本人の僕らが体験した記録です。世界的にスケートボードが競技からストリートへ移り変わっていくなかで、多くのトリックやムーブメントが生まれました。それをもとにスケートボードが現在カルチャーやアートと位置づけられるようになったのです。毎日、ただ滑り、スケーターたちがトリックをメイクする瞬間に無我夢中でレンズを向けていました。無意識の使命感ともいえるものでした。
スケートボードに本気で夢中になれた19歳の自分たちといま何かを手探りでさがしているひとへ捧げます。
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タイトル2行の時は間隔140
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LOVE SKATEBOARD JAPAN 2018
いろいろな思いが交錯する作品となった。80年代の写真をコラージュして古いスケートボードに封印したのである。
22才のときに乗っていたNatas Kaupasモデルがあることをふと思い出した。スケートボードの歴史に重要な意味を持つ人物のファーストデッキ、つまりスーパービンテージな一枚である。勢いでアメリカ行きを決めた初の西海岸ひとり旅。ラッキーにもナタスとフォトセッションすることができた1986年に話は遡る。友人の友人の紹介で出会ったリチャードという同じ年の青年がサンタモニカを案内してくれることになった。社交的で、実際に顔も広い。どんなスケーターを撮りたいかと聞くから「ナタス」といってもなかなか通じず、ようやく「ナラースか!」とあっさりナタスの家を訪れることになった。ナタスはローカルスポットを巡りながら、当時の分厚いスケートボードデッキを7枚重ねてオーリーで飛び越したり、ウォールライドやまだ本人すらメイクしていなかったオーリーハンドレールなど様々なトリックを惜しげもなく披露してくれた。僕はそれを必死でフィルムに写し込んだ。そのときのショットは写真集「JUDO AIR」にも掲載している。ストリートスタイルというものを創造した特筆すべきスケーター、それがナタスなのだ。当時日本ではまだ知られてなかったSanta Monica Airlinesからリリースされた彼のファーストシグネチャーモデルは幅が広くコンケーブが緩く、壁に当たらないように極端に短くしたノーズ、オーリーの高さを出すためのテールといったトリックに極度に特化したシェイプでクリアの木目に黒豹の絵柄がシルクスクリーンでプリントされているシンプルなグラフィックだった。ナタスのハイオーリーを直に見たのは強烈だった。彼とは天と地の差があったが、自分も靴を擦り続けた。
今回、写真を埋め込んで、30年間眠っていた魂を蘇らせるのだ。黄緑色のシュミットスティックスのレールバーを外すとその下にはジャングルのグラフィックが生きていた。ボトム面はグラフィックとナタス、ベニスの空気感をミックスした。表のデッキ面は83年から88年頃の日本をコラージュ。表参道、渋谷、代々木の歩行者天国からアキ秋山、カツ秋山、豊田貢らの滑りと共に、昨年急逝した大瀧浩史の写真も中心に入れた。印画紙の皮膜はサーフボードの製法にトライすることに。ガラスクロスを被せレジンを塗るのである。とは言え、自分にはまるで経験がない。期日がある展示作品に失敗は許されない。そこで新潟長岡の友人を頼ることにした。堀哲(ホリアキラ)は90年代にスノーボードフォトグラファーとして共に大会を廻り、お互いの家に泊め合うほど親交がある30年来の友人である。原宿のショップ、ストーミーと行動していた自分と長岡のメローズにいた堀哲とはなぜか気があった。そもそも彼の出自はサーフィンである。プロサーファーを目指して長岡から湘南に上京して、サーフボードファクトリーで働く経験をして、その後、故大野薫率いるパイナップルベティーズのスタッフになった。それを繋いだのは、同郷の先輩サーファー海津隆之だ。大野薫は日本サーフィン界の風雲児であった。その破天荒な言動を見て育ち次世代のシーンを牽引した故大瀧浩史、宮内ショーロク謙至、池田潤らの通称“カオルチルドレン”。堀哲もその一人である。僕もチルドレンとまではいかないが、多少の薫陶を受けたから通じるところがあるのだろう。
高速バスで金曜の夕方に長岡駅近くにあるサーフショップメローズを訪れた。いつ訪れてもあの時代にさらりと戻れるのは店主海津隆之の人柄だろう。メローズは近年お客さん達にサーフボード作りを広めている。材料のフォーム、ガラスクロス、レジン等を必要な分だけ量り売りで販売してくれるのだ。普通のサーフショップがしない門外不出のテクと材料を公開しているのである。閉鎖的なサーフィン業界に風穴を開けるパンクな行動を飄々とやってしまうのは長く横乗り業界を生きてきた海津隆之ならではだろう。メローズはスノーボードではゲンテンスティックがスタートする遥か昔から玉井太朗と親交を持ち、スノーボードのライダーには丸山バブルス隼人を擁し、フォトグラファーでは山田博行、スケートボードの高野信吾といった秀でたメンツがいる。にも関わらず、そこをメローズのセールスポイントにしないのが海津隆之の矜持なのだろう。
メローズに迎えにきてくれた堀チャンの家では共通の友、大瀧浩史の思い出から昨今のサーフボード作りの波紋、日本海のことや環境問題的に食べれる素材で作るサーフボードの話まで止め処も無く語り明かした。翌日は当然早起きすることはなく、昼からレジンを塗る段取りをする。ガラスクロスは白く見えるがレジンが浸透すると透明になる。その原理で薄い和紙に筆ペンと鉛筆でサインをする。それ用に文房具店に紙を買いにいったり、タープテントを借りに行ったりで開始が遅れたが、堀チャンの手さばきのよさはさすがで、現在もフィンの埋め込みやリペアを頼まれてやっているだけある。一番の基本は適切な高さの作業台を用意することだそうだ。タープを立てていると隣近所の人が納涼祭でもやるのかと思ったと気さくに話しかけてくる。シルマーレジンが足りなくなっても、メローズに行けばすぐに量り売りしてもらえる体制が心強い。堀チャンの奮闘でナタスが蘇った。昔働いていたファクトリーでは「おまえはサーフィンが下手だ!」と落とされながら蟹工船のような現場でレジンにまみれていたのが役だったと苦笑いしながら、「でも薫さんは『おまえサーフィンうまいよな』と言ってくれたんだ。」とつぶやいた。大野薫はめんどくさい人で、思ったことをストレートに口にしてトラブルも絶えなかったが、人の自尊心を落として従わせるような人間ではなかった。いいものはいいと言った。堀チャンも海津さんも大瀧くんも僕もそこを見て生きてきた。ベニスを日本に紹介した薫さんが繋げてくれた不思議な縁なのかもしれない。
「今年こそ日本海においでよ。いい波立つときはいいからさ。」ローカルに一目置かれる堀チャンの言葉。パドルだけですべてがバレる海では付け焼き刃はきかない。フィナーレは日曜の晩に長岡駅前通りの“レジオ”の店先にテーブルを出して偶然集まった友人達と飲みながら夜行バスを待つというなんとも満たされた週末だった。出来上がりはビームスで。 (文中敬称略)
2018年 06月 08日 カメラくん日記より